Always Change
A tale of a german trading house in Japan



1885年に日本で設立されたウインクレル商会は、日本に今も現存する数少ない、古くからあるドイツ系商社の一つです。ウインクレル商会の110年の歴史は、幾多の変動の歴史であり、日本とドイツの運命と密接に関連しています。

1854年3月31日、ペリー提督により日本は開国を迫られ、神奈川条約によって交易が始まりました。神奈川条約は当時殆ど知られていなかった小さな漁村、横浜で調印されました。1859年7月1日、ついに港が外国商人に対して開かれました。


Jacob Winckler
1851-1911
それから11年後の1870年、ドイツのシュターデの教師の息子で19才のヤコブ・ウインクレルが横浜にやって来ました。その直前に仏普戦争が勃発した時、ヤコブは丁度バンコクに到着したところでした。バンコクのドイツ領事館に予備兵として出頭するのが彼の義務でしたが、ヤコブはそれをせずに「脱走兵」として日本への旅行を続けました。その時、ヤコブが旅を続けなかったならば、きっと日本にウインクレル商会は存在せず、この本も書かれなかったことでしょう。

この頃プロシャの統治下でドイツ帝国が建国されました。一方、日本を統治していた若き明治天皇は、日本を孤立から脱却させ近代化を押し進めようとしていました。明治時代は、今日に至るまで日本の近代化の真髄を示すものです。当時、独日両国で大変動の時代を迎えていました。

横浜到着後、ヤコブは1869年に設立されたH.アーレンス商会に入社しました。とはいっても、ヤコブは商人ではなく、磁器の製作と焼成を専門分野としていました。その後、彼はアーレンス氏のため、恐らく同氏の代理として、上海や香港、神戸、長崎に出張したことと思われます。1873年11月、多方面に興味を持つヤコブは、日本在住の商人や他のドイツ人によって同年東京に設立された「東アジア博物学・文化人類学ドイツ協会」(現在のOAG)の会員となりました。これらの人々は、東アジアで働いていただけでなく、この地域の国々、特に日本の人々や文化、習慣について深く掘り下げて知りたいと考えていました。

1876年、ヤコブはH.アーレンス商会との2年契約を更新しました。程なく彼は、同商会での貿易事業の知識を習得しました。特に出張中に学ぶことが多く、1879年には遠くアメリカにまで出張しています。H.アーレンス商会が最終的に一般輸出業務を停止した時、この業務に関心を持つ者がもはや他にいなかったので、ヤコブは自分の責任において(きっと時には自分自身の名前で)輸出事業を続けました。まもなく日本から全世界に向けて行われた一般商品の輸出事業は、その後の110年間のウインクレル商会を決定的に特徴づけることになります。


post card to the company Winckler
around 1880
この時期に毛筆で書かれた見事な筆跡の葉書は、ある書棚の注文について「ウインクレル商会」宛に出されたものです。

商売は繁盛し、ヤコブはきわめて友好的な条件でH. アーレンス商会を退社した後、1883年に自分の会社を組織してパートナーを求めました。ヤコブは、友人でモスクワのドイツ系銀行に勤務していたフェルディナント・ダンクヴェルツに来日するよう依頼し、ダンクヴェルツは同意しました。

1885年の恐らく3月にヤコブはダンクヴェルツとスイス人のグレッピ氏(後に退社)と共に、ウインクレル商会の社名で無限責任の合名会社を設立しました。同社は現在に至るまで、一人の経営者による経営ではなく、数人のパートナーによる共同経営という原則を守り抜いています。


Ferdinand Danckwerts
1858-1929
ヤコブは技術者、グレッピは実業家(アーレンス商会で公認署名者として勤務)、ダンクヴェルツは銀行家だったので、ここにすぐれた経営チームが誕生しました。ウインクレル商会の住所は、横浜の当時はまだ治外法権区域だった外国人居留地山下町245番地でした。この時、ヤコブは34才、ダンクヴェルツは28才でした。

このように、ウインクレル商会は実際には前述の通り1885年以前からありましたが、正式な会社設立の年は1885年と考えられます。

最初の数年間、ウインクレル商会は日本の輸入業者から南海のアホウ鳥の羽を購入し、等級仕分けを行い、ヨーロッパやアメリカに輸出するなどして順調に事業を展開していました。当時、欧米ではアホウ鳥の羽飾りのついた婦人帽が大流行していたのです。

また、手工芸品、特にヤコブがアーレンス商会に勤務していた頃に習得した専門技術の分野である陶磁器も扱っていました。ヤコブは美術品鑑定家で美術愛好者でした。このことは、1890年に外国人としてはただ一人、京都美術館発起協会支援のため20円(現在の価値にして約15万円)の寄付を行っていることをみてもよくわかります。ウインクレル商会は数年間、美術商として活躍し、1894年にはパリの美術工芸展に出品しました。商会のパリでの美術工芸品事業の代表は、1870年代に日本に滞在し、ヤコブを良く知っていたS.ビンク氏でした。漆器類をはじめとするあらゆる種類の手工芸品は、数年にわたりウインクレル商会の重要な輸出品目となりました。100年以上経た今日でも、ウインクレル商会は依然として手工芸品を扱っており、商業油絵の輸入業者でもあります。

事業は拡張され、1891年には神戸に事務所を開設しました。当時、神戸は商業の中心地として横浜を追い越す勢いでしたが、美術事業もまたこの決定に影響を与えたものと思われます。というのは、横浜に比べ、神戸は京都や他の手工芸品の中心地にずっと近かったからです。更に、病気がちなヤコブは横浜よりも気候がおだやかな神戸を好み、以降は神戸から会社を運営しました。

ところで、ヤコブは日本のボタン産業の創始者とみなされています。技術者であるヤコブは、1890年代の始め、専門の機械類と共にドイツから連れてきた、フォークトランドのオルスニッツ出身の専門家ヴェルンシュテット氏と共同で小規模な真珠母ボタン工場を始めました。これを基盤に日本のボタン産業全体が発展したのです。ヴェルンシュテットはその後、日本人と結婚し、引退した後も神戸に住み続けました。

1936年になる頃には、真珠母ボタンの輸出は、神戸港から出荷される最も重要な輸出品目の一つになっていました。ウインクレル商会の神戸倉庫では、数十人の娘達が輸出用にボタンを寸法別に仕分けしてボール紙に縫いつける作業に専念していた、と言われています。数千トンものトロカス貝がインドネシアから日本に輸入されるようになり、多数の日系商社が日本からの真珠母ボタンの輸出に従事するようになりました。

それはさておき、話しを本筋に戻しましょう。ヤコブは1895年にドイツに帰国し、同年、ドイツにも支店を開設しました。時に、ヤコブは44才になっていました。

日本では以後、ウインクレル商会は38才のダンクヴェルツにより経営されました。彼は1929年3月25日にフランクフルト出張中に72才で客死するまで、最初は日本で、後年はハンブルクから、立派に会社の責任者としての務めを果たしました。ダンクヴェルツは死ぬまで、「非常に厳格で大いに恐れられたウィンクレル商会のボス」とみなされていました。彼の息子の一人、ヘルムート・ダンクヴェルツは、1830年代に神戸事務所で働いたことがあります。また、ダンクヴェルツの甥は有名な旅行紀行家クラウス・メーネルト(「世界のドイツ人」)で、1929年の日本旅行の際にウインクレル商会に立ち寄っています。さて、ここでいよいよ、ウインクレル商会で重要な役割を果たすことになるもう一人の親類、G.ゼーリヒ・シニアの登場となります。

ヤコブは1895年にドイツに帰国すると、当時20才だった知人のF.ゲンセンを補強要員として日本に派遣しました。ゲンセンはその後、1905年に公認署名者となりました。更に、1910年にパートナーとなり、ダンクヴェルツがハンブルクに帰った後に日本でのウインクレル商会の責任者となりました。最終的にはゲンセンも、ダンクヴェルツの死後ハンブルク事務所の経営を引き継ぐためにドイツに帰国しました。

このように、ハンブルク事務所は創設当初から重要な役割を果たしていました。「Winckler & Co.」という名称はすでに他で使われていたので、ハンブルク事務所は最初、J.Wincklerという社名で独立した会社として1895年に登記されました。その後、この同名の会社がなくなると、社名をWinckler & Co.に戻しました。1945年までは、ドイツのWinckler社はどちらかというと、日本のウインクレル商会の代理店とみなされていましたが、歴史の歩みと共にハンブルク事務所は日本のウインクレル商会を守るために再三再四力を尽くしました。

日本における環境は、ウインクレル商会の設立以来激変していました。商会設立当初は、男性はまげを結い、交通手段として駕篭や人力車が使われ、品物は手押し車や馬車で運ばれていましたが、日本は目に見えて近代化されつつありました。1890年12月16日になる頃には電話も敷設され、電話番号28番でウインクレル商会に電話をかけることができました。当時、横浜の電話加入者は合計31人でした。この時期、ウインクレル商会の本社は横浜市中区山下町256番地にあり、その後100年以上ここを本拠地とすることになります。

その頃の、特に中南米方面への事業の拡張は、現在でもウインクレル商会が所有している1889年度版のウエブスター辞典と1891年の西英/独西辞典の二冊の辞書が証人です。

ウインクレル商会は引き続き取り扱い品目を増やしていき、例えば麦わらさなだや漆器類(これらの製品のために自社工場を開設)をはじめ、ハッカ、メントール、陶器、木蝋や竹材といった製品を独自に開発し、販売を促進しました。その後、北日本、サハリンそしてシベリアからの獣皮と皮革が加えられ、重要な商品となりました。

更に、ハッカ油、メントールそして皮革の大がかりな取引が行われました。この取引は供給業者や製造業者に対して長期にわたる事前融資を行ってはじめて可能となったものであり、この事前融資は数十年にわたってウインクレル商会にとり主要な役割を果たすことになります。今日でも、輸入事業への融資は少なからぬ比重を占めています。

ウインクレル商会は成長を続け、1900年1月1日にはヤコブ、ダンクヴェルツ及びゲンセンによる15年にわたる輝かしい事業展開の成果を基盤に、新しい世紀を意気軒昂と迎えることができました。

G.ゼーリヒ・シニアがドイツの両親に宛てた手紙には、この時代が生き生きと描かれています。前述のダンクヴェルツの親類であるG.ゼーリヒ・シニアは、ダンクヴェルツの引き立てで入社しましたが、日本で仕事をするための十分な準備をしてから来日しました。1898年に23才で来日する前にベルリンの「東洋言語研究所」(現在はボン大学付属)で日本語を専攻しましたが、それは当時としては非常に珍しいことでした。ゼーリヒ・シニアはまもなくパートナーになりました。彼の息子のG.ゼーリヒ・ジュニアは第二次世界大戦後、日本のウインクレル商会の再編成に奮闘することになります。更に、彼の孫達はウインクレル商会を21世紀に向けて導くことになるのです。

前述の手紙の日付は1900年8月22日で、富士登山について説明されていますが、もうとっくに忘れられてしまった事柄や、今も昔と変わらない事柄が記述されています。

例えば、人力車に乗って横浜駅に行き、立ち席しかない混んだ電車に乗ります。支払は日本人の連れにさせた方がよいのです。というのは、「もし私達外国人だけだと、料金はきっと高くなり、他にもたくさん不愉快な事をに耐えなければなくなるから」です。さて、御殿場駅から馬に乗って富士山に向かいます。ゼーリヒの馬は女性の馬子が手綱を取りました。「私のガイドは美人だった。ただし、それは後ろから見た時の話しで、振り返って誘惑するように私に微笑む彼女の口は真っ黒で地獄への入り口のように見え、ぞっとした。日本の既婚女性は口の内側を舌や歯まで黒く塗る習慣があるのです」。一日目の夜は二合目で泊まりました。「この宿泊所は山の側面に掘られた洞穴で、冬の間すっぽりと雪に覆われます。かなり大きな宿泊所でしたが、天井がとても低かったので前かがみでしか歩けませんでした。」夜遅くなると、「山の上までは法の目が届かず、御禁制の賭博をしても罰せられないので、」雇ったかつぎ人夫達は花札を始めました。「私達はこの立派な宿泊所に一人1円(2.10マルク)も払わなければなりませんでした。」二晩目は八号目で過ごし、段々と頂上に近づきました。「私は100歩登っては5分休憩し ければなりませんでした。」三晩目は死ぬほど疲れて頂上近くで泊まりましたが、「不運にも寝過ごしてしまい、非常に美しいという日の出を見過ごしてしまいました。日の出を見られなかったことは、今でも残念でなりません。」次に、山を下ります。「私達の前後は這うようにゆっくり進む日本人であふれかえり、のろのろとしか先に進むことができません。あの朝、500人位の人が現れたのではないかと思います。」ついに一行は二合目に戻りました。「この避難所は次の晩、東京のさる内親王とその随行員に貸されることになっていました。哀れな少女は罪を犯し、その償いとして山上でお祈りをしなければならないのです。この後、この内親王はさる親王と結婚するものと考えられています。」 御殿場からは「ゆっくり休んで元気を取り戻せるように一等車に乗りました。」偶然にも車中では内務大臣と同じコンパートメントでした。横浜の一つ手前の駅で大臣が乗り換えのため下車する際に、「茶屋で贈り物として私達も貰ったのですが、いらなかったので置いてきた団扇を数本、窓越しに私達にくれました。」この手紙は、「全ての事柄が夢のようで、本当とは思えない程素晴らしいと私には思われます。」という言葉で結ばれています。

とかくするうちに中南米、アメリカ、ドイツおよびその他のヨーロッパ諸国との取引関係を持つことができました。1907年には中国の青島に支店が開設され、特にピーナツの輸出入に従事しました。

日露戦争(1904年−1905年)後にドイツから日本に輸入されたものは、主としてライプチヒのF.A.ブロックハウス社の医学や哲学、技術に関するドイツ語の教科書でした。ウインクレル商会はブロックハウス社の日本総代理店でした。また、スペインからの水銀、セイロンからの黒鉛、ドイツからの化学薬品の輸入にも重要な役割を果たしました。しかし、商会の活動分野の主軸は輸入ではありませんでした。圧倒的な比重を占めていたのは輸出であり、他の全ての事業の占める割合は小さなものでした。

創立者のヤコブ・ウインクレルが61才でドイツで死去した翌年の1912年2月5日、商会は合資会社に組織変更されました。有限責任社員は、ヤコブの未亡人ヘドヴィヒ・ウインクレル、ハンブルクに移っていたダンクヴェルツ、ダンクヴェルツから横浜支店長の地位を引き継いだゲンセン、それにゼーリヒ・シニアの他、恐らくヤコブと一緒にハンブルク支店を設立したと思われるJ.ヴェストファーレン(当時、日本駐在)、後に横浜支店長になるF.ファハトマンでした。

同年、名古屋にも支店が開設され、支店長にはK.フォスがなりました。フォスは恐らく、名古屋で最初のドイツ人実業家だったと思われます。名古屋からは磁器製品や麦わらさなだが輸出されました。麦わらさなだは当時、欧米で夏に一般的に用いられた男性用麦わら帽子に加工されました。このようにして横浜、名古屋、神戸にウインクレル商会の支店が置かれ、この伝統は現在まで維持されています。更に、1912年にはヤコブがハンブルク支店を設立し、彼の死後はダンクヴェルツが運営にあたりました。また当時、青島にもドイツ人のP.クット氏を責任者として支店が開設されつつありました。

一日の仕事が終わると、ドイツ人の集まる「クラブ・ゲルマニア」に寄るのが当時の習慣でした。同クラブは1913年に創立50周年を迎えています。クラブではボーリングや玉突を楽しんだり、ビスマルクの生誕を祝って富岡まで遠足をしたりしました。

ウインクレル商会の着実な発展は、1914年、第一次世界大戦勃発のため突然その歩みを止めました。「敵国」の一員として、ウインクレル商会は各地の事務所を閉鎖し、社員を解雇せざるを得ませんでした。ドイツ人男性の中には、ドイツ植民地防衛のため青島へ徴兵されて行く者もいました。

横浜、神戸、名古屋の事務所は強制的に売却され、その収益は日本人によって押収されました。青島のやっと完成したばかりの事務所や倉庫は、戦利品として日本人の手に落ちました。倉庫は厩として使用するため、ドイツ軍に接収されていたのです。残されたのはハンブルクの事務所だけでした。このようにして、ウインクレル商会は設立から約30年後、日本におけるその活動を余儀なく停止する事態に陥りました。


戦後、押収された資産の大部分は返還され、1920年にダンクヴェルツによる経営の下で商会としての活動を再開しました。ドイツ人の旅行が再び認められるようになると、日本でパートナー達と再建策について協議してすみやかに実行に移すべく、ダンクヴェルツは直ちにハンブルクを発ち日本に向かいました。資本金を増資するためと、広い事務所はもはや必要ないため、神戸の美しい建物を売却し、最初のボタン工場が元あった場所で、倉庫群と小さな事務所を建てることになっていた場所に事務所を移転しました。当分の間はこの新体制で充分であり、1994年までほぼ75年間この場所を拠点としました。

問題は、ドイツは別として、大部分の日本の顧客が戦争中に他の供給業者を見つけていたことでした。それらの供給業者の中には、ウインクレル商会からやむなく解雇された後、新たな生計手段を見つける必要に迫られたウインクレル商会の元社員が経営する会社もありました。これら新会社の強みは、日本の供給業者と海外の顧客に関する知識でした。

それでも、昔の取引関係をまもなく回復することができ、ウインクレル商会は徐々に足場を固めていきました。ところが、特に欧米で幾つかの新しい顧客を開拓し、事業も活況を呈しようとしていた矢先の1923年9月1日正午頃、日本の近代史上最大規模で最も悲惨な地震が関東地方を直撃しました。

その日は残暑の厳しい、風の強い日でしたが、その強風のせいで被害がよけい大きくなったのです。随所で発生した火事が風のため急速に燃え広がり、地震による倒壊をまぬがれた建物も焼失してしまいました。東京の半分以上が壊滅状態になり、ウインクレル商会の横浜事務所や倉庫も被害を受けました。この災害による死者は10万人以上にのぼりました。

事業を続けるべきでしょうか。とりあえず、社員と本社を神戸に避難させ、ごく小規模な事務所を横浜と東京に一つづつ、それぞれ輸出業務と輸入業務を行うため残しました。

大地震とその結果生じた損失により、多くの会社が廃業しました。その中にドイツ系のゲルトナー商会があり、F.ドーリンク氏は会社を公売に付してウインクレル商会に入社しました。大地震により、同氏がカナダ経由で日本に向かっている間にゲルトナー商会は致命的な被害を蒙り、最後の取引きを清算して会社を閉鎖するしか道はありませんでした。1925年、ドーリンクは神戸のウインクレル商会に入社し、神戸で勤務を続けて1936年に遂にパートナーとなりました。

ウインクレル商会では、唯一のドイツ系商会として、横浜で会社の立て直しを図ることが決定されました。新社屋は、震災後横浜で建設された最初の個人所有の鉄筋コンクリートビルであったといいます。この建物の一階が空いていたので、1935年までドイツ総領事館に提供されました。

その後、二軒の大型倉庫と、梱包・検査ホールをこの用地に建てることになっていました。 化学薬品やアスピリンを扱うハイデン商会からウインクレル商会に派遣されたパウレンカ氏は、日本への旅について1926年に次のように述べています。「私は9週間かけてスエズ運河・香港・上海経由でハンブルクから神戸まで、ノルトロイドの蒸気船「コブレンツ」号で旅をした。コブレンツ号はヴェルサイユ協定により大きさは総トン数9000トン、速度は時速12海里を超えることはできなかった。船上で私はウインクレル商会のウンゲレンク氏と知り合った。」

ところで、ウンゲレンク(ドイツ語で‘不器用’という意味)氏は文字通り「名は体を現す」という人でした。1927年3月に神戸で地震があった際に事務所で足を折り、慌てふためいてドイツに逃げ帰ったのですが、今度は神戸よりもずっと地震の頻発する横浜へ転勤を命ぜられ、「後に後悔することになる」と、パウレンカは報告しています。

1923年に横浜を襲った壊滅的な大地震も、1926年以降益々影響を及ぼしつつ広がっていた世界不況も、ウインクレル商会の拡張の勢いを遅らせることはできませんでした。商会は成長を続け、遂に世界中に輸出するようになりました。国によっては、ウインクレル商会は初めて日本から商品を供給する会社でした。日本が率先して金本位制から離脱し、このため円の急激な切り下げが推進されたことが輸出事業に好影響を与え、その結果としてウインクレル商会の事業に有利に働くこととなりました。

もちろん、慎重で機敏なパウレンカが詳しく述べているように、時には不測の事態も生じました。
「ゲンセンは黄金海岸のアクラにもドイツ人の代表者を任命した。この男は貴族で元軍人だったが、市場の女達にまで見境なく直接商品を売りまくった。ココアの価格暴落でアフリカ内陸部のココア栽培農家に購買能力がなくなると、市場の女達は注文した商品を受け取ろうとしなかった。そこで、社員のヴェルフェリンク氏を神戸からアクラに派遣して債権の回収に務めたが、彼は黄熱病にかかってしまった。」
事態はこのような顛末を迎えたわけですが、債権はとうとう回収できませんでした。

第一次大戦後、名古屋における会社の権益は最初、ある日本の会社が代表していましたが、1928年にウインクレル商会はケーヴァー氏による経営の下で再び自社の事務所を開設し、1932年には「Ozone」(海岸??)地域に広大な土地を購入し、事務所ビルと大型倉庫を建てました。

疲れを知らない、非常に鋭敏なダンクヴェルツは1929年3月25日に死去しました。同氏の死と共に、ウインクレル商会は創設者の最後の一人を失いました。


事業は拡張を続けましたが、時には後退もありました。1933年8月、神戸の事務所と倉庫が全焼したのです。

現在ハンブルクのWinckler社のパートナーであるG.ドーリンクは今でもはっきりと覚えています。
「火事があったのは夏のことで、私の両親は神戸近郊の明石に別荘を借りていた。ある日曜の朝、のんびりと朝食を楽しんでいた時、隣人が父(F.ドーリンク、前述した通り最初はゲルトナー商会に勤務)を訪ねてきた。隣人は神戸事務所が(前日)全焼したのに、私達がまるで問題などないかのように平然と落ちつき払っているのでびっくりした。火事のことは新聞に出ていたが、父はそれをまだ読んでおらず、おまけに私達の所には電話もなく、近所に住む隣人もいなかった。その頃はまったくの田舎に住んでいるようなものだった。」

火事はセルロイドの見本を梱包している時に起こりました。セルロイドの見本は出荷のため金属シートで裏打ちした箱に梱包する必要がありました。これら金属シートの溶接中に不注意な取扱いのために火事が発生し、急速に燃え広がったのです。それでも、同年、ドイツ人の建築技師F.W.リンドナーが、大規模で非常に近代的な社屋建設に取り組んでいました。窓枠は以前のように木製ではなく、スチール製で珍しいものでした。計画書と計算書は1933年12月8日に提出され、翌年の2月7日には建築許可が取得され、更に翌年には入居できるばかりになっていました。

当時アメリカドルは約2円で、イギリス・ポンドは約10円の価値がありました。通貨の換算は換算表を用いて行われていました。電報の発信にはコードブック(電信暗号帳)が使われ、ウインクレル商会では特別な顧客とは個人的なコードを取り決めていました。

ウインクレル商会名古屋支店で秘書として二年間働いたことのある、作家で親日家の ローズ・レッサーは当時のことを次のように書いています。「第二次世界大戦前は、日本では信じられないほど安く生活できた。例えば、神戸の芦屋のすばらしい松林の中にある二階建ての貸家(大きな部屋四部屋に広い台所、浴室、庭があり、裏庭には頑丈な納屋があった)を借りたが、家賃は月々僅か20円だった。しかも、綺麗な海岸からほんの2分の場所だった。」当時の20円は現在の価値にすると3万1千円位ですから、本当に安いものでした。

神戸、名古屋、東京、横浜に事務所を持つウインクレル商会は、1936年の第四回神戸港祭のプログラムの広告で自社の紹介を行いました。この自らを語る広告には、神戸の新社屋や、新たに再建された横浜の二階建ての事務所ビルが掲載されています。また、50頁からなる1938年以降のウインクレル商会の輸出品目カタログでは、別府支店についても触れられており、その頃には三階建てになっていた横浜支店の写真も載っています。

とかくするうちに、ドイツではヒットラーが権力を握り、日本は軍部に支配されました。ドイツでは戦争はまだ話題にのぼっているだけでしたが、中国では実際に戦争が勃発し、日本は通貨の持ち出しを全面禁止しました。それにもかかわらず、そして特にウィンクレル商会は本来輸出業者であり、従って通貨獲得者であったので、事業は何等変わることなく続行することができました。1930年代の終わりに、ウインクレル商会は今までになく大きな発展を遂げました。営業年度1938/39年の月給および賞与の一覧表には、横浜だけでも170人の日本人社員と26人のドイツ人社員が記載されており、その頃にはハンブルク以外にも、プサン(朝鮮)と上海にも海外支店がありました。更に、香港にも支店が開設されようとしていました。全体で約700人の社員がウインクレル商会に雇用されており、このためウインクレル商会は日本最大のヨーロッパ系輸出会社となり、海外の関連会社は80社を超えていました。

1938年の雨期、神戸では特に雨が激しく降りました。地滑りが洪水を引き起こし、ウインクレル商会の建物があった市の東部はほとんど壊滅状態になりました。しかし、新築の鉄筋コンクリート建てのビルは大洪水に耐えました。只、水害による商品の損失は甚大でした。しかし、会社の業績が良かったのでこの逆境も乗り越えることができ、ヴェストファーレン神戸支店長は運転手付きの社用車の他に、乗馬を続けることさえできました。

当時、会社の経営は、横浜のF.ファハトマン、G.ゼーリヒ・シニア(1938年に死去)、O.ヴェルナー、神戸のW.ヴェストファーレンとF.ドーリンク、そして前述のハンブルクのF.ゲンセンの6人のパートナーによって分担されていました。ウィンクレル商会の50年の歴史を誇りを持って回顧することができました。その頃には上級パートナーとなっていたゲンセン、ゼーリヒ・シニアおよびファハトマンは、1921年の商会立て直しに尽力しました。また、W.ヴェストファーレンは1935年に死去したパートナーのJ.ヴェストファーレンの息子です。各パートナーは引退すると、息子の一人をパートナーとして商会に入社させるのがしきたりとなり、これは現在も続いています。ゼーリヒ・シニアの場合、息子のゼーリヒ・ジュニアは父親が63才の誕生日直前の1938年8月に突然死去した後、入社しました。事業の急成長とそれに伴う業務増大のため、1922年にハンブルクのWinckler社で見習いとしてスタートし、1924年に来日したヴェルナーと、1925年以来神戸支店に勤務していたドーリンクの二人が新たにパートナーに選ばれました。

日本での創業から50年を経た1930年代半ばから、ウインクレル商会は自ら開拓した努力の成果を収穫することができました。けれども、再び戦争がすべてを一掃してしまいました。第二次世界大戦が1939年にヨーロッパで勃発し、1941年には太平洋戦争が勃発しました。戦争はあっと言う間に勃発し、備える暇などありませんでした。ウインクレル商会では、南米での業務の資金調達のためにサンフランシスコの取引銀行に預金しておいた10万ドルを引き出すことができず、アメリカ当局に押収されてしまいました。ウインクレル商会にとり、戦争による最初の損失でした。一方、出張中の二人のパートナーも戦争の不意打ちを食らいました。

1941年にO.ヴェルナーは(当時ヨーロッパへの唯一のルートとしてまだ利用できた)満州・シベリア経由でハンブルクへ向かっていましたが、戦争のため、日本に戻ることができなくなってしまいました。戦後、彼はアメリカにより1947年に家族と共にドイツに送還されたF.ドーリンクと共に、ハンブルク支店を独立した会社に発展させる上で決定的な役割を果たすことになりました。その他のドイツ人社員やその家族達も同じような運命を辿りました。

最初からダンクヴェルツと共に会社を共同経営してきたゲンセンも、ヴェルナーと似たような経験をしました。1939年、ゲンセンはハンブルクから日本に向かいましたが、途中で重病にかかり、日本では適切な治療が受けられなかったのでカリフォルニアのバークレイに行きました。病気は1941年の末には回復しましたが、1941年、日本軍による真珠湾攻撃後の12月12日にアメリカと日独伊は交戦状態に突入したため、ゲンセンは日本にもドイツにも戻れなくなってしまいました。ゲンセンは妻がアメリカ生まれだったので、1951年までアメリカに留まることができました。1951年、76才の時に彼はドイツに帰国し、1956年に死去しました。

戦争勃発後、事業は徐々に停止に追い込まれ、社員は解雇されました。事業年度1937/38年に20,618.93円であった通信費が、事業年度1941/42年には僅か13,713.73円に減少し、電報費は約5万6千円から約1万7千円に激減しました。1941年、用心のため本社を横浜よりも静かな神戸に移転しました。当時ドイツは日本の敵国ではなかったので、当分の間は事業を続けることができましたが、貿易業務は目に見えて減少していき、その結果として社員の解雇は避けられませんでした。その上、多くの日本人社員が軍に召集されたり、徴用されていきました。社員の数はその間減少の一途をたどり、貿易業務は1943年に事実上中止せざるを得ませんでした。ドイツで新発明された防疫用殺菌消毒薬のライセンス契約といった、小規模な事業を細々と潜水艦を利用して行うことができるだけでしたが、この取引は事業年度1942/43年に“数千円もの”取り引きとなりました。

ウインクレル商会社の社員が戦争末期にどのような経験をしたか、その当時には正社員となっていたパウレンカは次のように記しています。
「ちなみに、戦争中物が不足していた頃、妻と私は釣竿を使って丘の貯水池の牛蛙を捕らえ尽くした。牛蛙の二本の後ろ脚は、若鳥の二本の脚ほどの量があった。」
麦を育て、自分で脱穀してパンを焼いた者もいます。また、樹木の多い斜面では薪がたくさん取れました。

このような状況で、神戸の広い事務所には使わない部屋があったので、1942年5月からバイエル薬品会社の事務所に貸すことができました。1945年3月16日夜から17日未明にかけての大空襲で社屋が全焼してすべて焼失してしまうまで、同じ屋根の下で困難な時代を共に過ごしました。1941年12月1日に創刊され1946年6月30日に廃刊した神戸会計士ジャーナル16号は、この出来事と日独両国における終戦を、会計士として超然たる態度で無視しています。

横浜と名古屋の建物や広大な上屋も戦争で全壊した。

1945年、ウインクレル商会の全資産は連合軍によって接収されました。このようにしてウインクレル商会の歴史が二度目の幕を閉じました。丁度60年間にわたる、並外れた成功を収めた商業活動の後、商会は日本での事業をまたもや中断する事態となりました。


ドイツでは、戦前日本のウインクレル商会に勤務し、ドイツに強制送還されていたパートナー達と数人のドイツ人社員が、ハンブルク支店をJ. Winckler & Co.の社名で独立した会社にしました。これらの人々の中には、前述のO.ヴェルナー、F.ドーリンク、パウレンカ、ケーヴァーといった人達がいました。当時のドイツはコンラッド・アデナウアーとルードヴィヒ・エアハルトの時代で、「ドイツ経済の奇跡」が実現されつつありました。昔の取引関係を復活することができ、日本のウインクレル商会の多数の取り扱い品目、顧客、製造業者を引き継ぎました。この財産を元に、会社の基盤はめざましい拡張を遂げ、特に日本への技術輸出をはじめとする新たな分野が促進され、新会社はその地歩を固めることができました。1960年代の終わりには、100人以上の社員が働き、世界中で事業を展開しました。パナマには支店が設けられました。また、1970年代始めの昭和天皇訪独の際には、前述した日本のウインクレル商会の旧パートナー、O.ヴェルナーは拝謁を賜りました。このようなやり方で、日本はウインクレル商会に対して、日本との取引、特にヴェルナーによる日独の取引関係の発展と再構築に謝意を表したかったのです。

日本では、事態は最初静かでした。F.ファハトマンは1946年1月に横浜で死去し、F.ゲンセンは70才を超えてアメリカで暮らしていました。W.ヴェストファーレンとF.ドーリンクはドイツに強制送還され、O.ヴェルナーはドイツに留まらなければなりませんでした。G.ゼーリヒ・ジュニアだけが日本に残っていました。しかし、1949年11月30日に次のような記事がドイツの新聞に掲載されました。

「東京発VWDによれば、日本のドイツ系五社が自社の社名で事業活動を再開する許可を与えられた。...連合軍最高司令部は、日本の降伏以来施行されていた信託統治を廃止した。...これら五社とは、日本の最有力ドイツ系企業である、輸出会社のウインクレル商会、Leybold-Import AG、船会社代理店ヘルム社、輸出入会社トールドセン社、および同社の関連金融会社である。」

日本政府は、没収されていた土地の一部買い戻しを申し入れてきました。日本滞在を許されていた唯一人のパートナー、G.ゼーリヒ・ジュニアによる経営の下で、そしてその後彼がドイツから呼び寄せた兄のH.ゼーリヒと共に、ウインクレル商会の再建は少しずつ動き始めました。彼らは戦前のウインクレル商会の社員、例えば神戸の加藤氏や特に横浜の打橋氏の再雇用に成功しました。これらの人々は戦後の混乱の中で会社の管理を暫定的に行っただけでなく、ゼーリヒ・ジュニアを助けて会社再建に尽力しました。できるだけ多くの元顧客との取り引き関係を復活しようとの試みがなされました。一年目の事業年度1951/52年一年間では、当時としてはかなりの額であった2億4千5百万円以上に相当する商品が出荷されました。更に、事業年度1952/53年の業績は3億1千万円を越え、事業年度1953/54年には約4億4千万円相当の商品を出荷しました。戦後しばらく、G.ゼーリヒは「パートナー」として「敵性資産保護処分」を受けていましたが、これも1954年には解除されました。昔の取り引き関係が復活し、新しい取引関係もできました。取り扱い品目の範囲が広がり、ゼーリヒ・ジュニアのダイナミックな経営の下で商会は徐々に成長 オ、横浜、東京、名古屋、神戸で再び活発に活動するようになりました。神戸支店の社屋は再び完全に再建され、1960年撮影の写真に見られるように、ライバル企業の隣に誇らしげに立っています。そうこうするうちに、同商会は五つの大陸のあらゆる地域で活動を再開しました。多くの日本人が、1964年のオリンピックで自信を取り戻したと言いますが、同じことがウインクレル商会についても言えます。100人近くの日本人社員と6人のドイツ人社員と共に、会社は再び活発な活動を展開しようとしていました。

1965年の夏以降、機械類が輸入されましたが、最初は試験的なものでした。機械類の輸入はそれまで軽視されてきた分野でした。というのは、ウインクレル商会では、伝統的に過去100年以上にわたり、時折一般商品の輸入を展開した他は、一般商品の輸出に力を入れてきたからです。しかし、競争力を維持するには、地歩を固める必要があります。いまだに事業の大部分を占める輸出に加えて、技術輸入の事業もまた有望に伸びつつあり、今日ではウインクレル商会の最も重要な活動分野になっています。

しかしまもなく、再び暗雲が立ちこめようとしていました。日本は1971年に「ニクソン・ショック」を経験し、1973年には「第一次オイル・ショック」、1978年には「第二次オイル・ショック」を経験しました。ドルは1ドル200円に下落しました。当時はまだ輸出に依存していたウインクレル商会社にとっては厳しい一撃でした。約50年前の円の切り下げは会社の貿易事業に並外れて好い影響を与えましたが、今回は反対の事態が起きたのです。円は全ての通貨に対して価値を上げ続け、従ってウインクレル商会の昔からの活動範囲である一般商品の輸出の強い妨げとなりました。社員をレイオフせざるをえず、会社は最終的に殆ど全ての取り扱い品目と顧客を、東南アジアの安い新市場に奪われる結果となりました。ウインクレル商会は、30年のサイクルで揺り動かされてきました。創立30年後の1914年には日本で強制的売却を余儀なくされ、60年後の1945年には完全に接収されました。更に、90年後の1970年代半ばには昔からの顧客、市場、取り扱い品目が急激に失われるのをとどめることができませんでした。120年後、21世紀初頭にはどのようなことが待ち受けているのでしょうか。

機械輸入部門は一致団結して事業拡大を図りました。機械に関係した事業に加え、1981年には新部門を設置してウォータースポーツ用品の輸入を開始し、数年後にはウインクレル・スポーツ・アンド・レジャー株式会社を設立しました。ウインクレル商会の基盤は確立され、1985年には創立100年をつつがなく祝いました。会社は横浜のG.ゼーリヒ・ジュニアと、神戸支店の責任者である兄のH.ゼーリヒにより共同経営されました。

1988年には会社の組織変更を行い、ウインクレル商会株式会社が設立され、横浜、名古屋、神戸に事務所を置いて貿易業務を続けることになりました。
あらゆる分野においてウインクレル商会の伝統を守る努力を続ける一方、G.ゼーリヒ・ジュニアの息子のインゴ・ゼーリヒが一般輸出部門の責任者を務め、更に現在ではおもに、食品・梱包産業用機械類や機器の輸入に力を入れています。また、輸入した機械の大切な顧客サービスを行うため、社内に顧客サービス部が設立されました。会社の経営はG.ゼーリヒ・ジュニアの次男のR.ゼーリヒによって引き継がれました。このようにゼーリヒ家は今や1898年以降三世代にわたりウインクレル商会に関与しています。

1992年7月16日にG.ゼーリヒ・ジュニアがミュンヘンで死去し、その後まもなく兄のH.ゼーリヒも1992年8月26日に神戸で亡くなりました。彼らの死とともに、一つの時代が終焉を告げました。ウインクレル商会は大いなる困難を伴って日本で三回目の組織化を行いましたが、もはや昔のやり方は通用しない時代です。斬新なアイディアや解決策が求められています。日本で更に110年間事業活動を展開するという課題に挑戦するには、ウインクレル商会を一変させる必要があります。



ウインクレル商会株式会社の社史作成にあたり、バイエル薬品会社の報告書や書類の他、F.ゲンセン氏、R.A.パウレンカ氏、
G.ゼーリヒ氏、H.ゼーリヒ氏、D.ヴェルナー氏及びO. ヴェルナー氏提供の資料に基づきました。なお、G.ドーリンク氏
および小関、吉沢両氏のご好意に特に謝意を述べさせていただきます。また、「第四回(神戸)港祭1936年記念プログラム」、
「1906年4月1日」、ストーリー著「History of Modern Japan(近代日本史)」、レッサー著「Japan, the Foreign Country−Japan,
the Homeland(異国の国日本−祖国日本)」、宮島著「S. Bing to Nihon(S.Bingから日本へ )」等の資料も参考と致しました。

Yokohama, May 31, 1995
H. Feid


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